日本水琴窟アカデミーについて

日本水琴窟アカデミーについて

▣水琴窟の語源

 文献史上で“水琴窟”の語源を探ると、昭和32(1957)年に元東京農業大学教授平山勝蔵(1899~1990)が日本造園学会春季大会で口頭発表した、「水琴窟について」が最も古い。私はその数年後に同大学に学び、同教授の講義内容(板書する代わりに黒板に張り出された、幾枚ものB1判ケントの図紙上にて見聞)で知ったのが最初の出会いであった。その内容は庭師仲間に伝承されてきた、“洞水門”(1958年に刊行された、上原敬二著「ガーデンシリーズ3 飛石・手水鉢」128-132頁に所載あり)とほぼ同系統のものであった。

                                     資料1:東京農業大学造園学科編:「平山勝蔵先生の著作」,昭和57年9月

 前出平山が遺した年譜(資料1)をみると、昭和12年4月に山陰の尾崎邸庭園の実測図の作成に、学生たちと従事して
いる。尾崎家水琴窟の歴史遺産は、実はこのとき発見されていたもので、論文(造園雑誌,22巻3号,14-17頁,1959)
はそのときの実地見分をもとに記述されたと思われる。
 では、いつごろの時代から水琴窟という呼称が始まったのだろうか。同年譜には大正6(1917)年~同13(1924)年、
庭師 堀口庄之助(唯心流8世)のもとへ出入りしていたと記載がある。江戸期から始まる唯心流の仲間うちでは、水琴窟
が洞水門に替わる用語として普通に使われていたのだろうか。それとも、平山が差別化を意図し自ら命名した造語だった
のだろうか。であるとすれば、単なる排水機能を満たす学術用語“洞水門”から、世の関心を“水琴窟”なる音文化の世界へ
いざなった、平山のその粋な先見性に対して敬服である。

 これからも水琴窟と洞水門の接点を求めて、豪農・豪商の館を訪ね歩く私の古民家めぐりは続くだろう。昔の交易は陸
路よりも海路であった。それゆえ今は北前船の寄港地にも着目している。水琴窟の出自(茶人?商人?)である都のみやび文化は、中央から海路伝いに各地へ広がっていったに相違ない。各地方の豪農豪商の館に残された古文書(日常のつれづれを綴った日記帳など)の中に、それらしき文言が残されてはいないだろうか。と同時に水琴窟の遺構が、露地のどこかに埋まっているはず。門外漢ながらも、日本人に特有の音文化(虫の音、松籟の語が好例)に関する関心は、いつまでも余命ある限り終わりそうにない。全国各地でどなたか古典籍の情報に詳しい方、“水の音を愛でる”それらしき遺墨に、心当りのある方はございませんでしょうか。
 ぜひ、情報をお寄せいただければ有難い。

▣ 水琴窟-師(SUIKINKUTSU-Meister)とは

 資料2:http://www.suikinkutsu.com/keika.htm
 先ず前段:この資料2は、水琴窟の再発見から復元・普及に至る、黎明期から平成14(2002)年までの略年表である。昭和58(1983)年の黎明期に、朝日新聞「天声人語」が水琴窟のことを二度にわたり取り上げ、全国的に大きな関心を呼んだ。以降、’水琴窟’ の用語は広辞苑(第5版・1993年)に収録され、既成NPO団体(資料2)の一定の活動経過をへて、今はその啓蒙時代は過ぎたように思われる。この期間を仮に第一次のブームということにする。

 さて本題:水琴窟師は庭づくりの師匠“庭師”と同義に私は思う。真正の庭師は高価な材料に拘泥する必要はなく、廃材となった二次製品を適材適所に使える 技量をもつ。例えば古瓦を小端(コバ)立てて土留め縁石の替わりに、挽き臼を園路にすえて飛石がわりに使用する。今どき風にいえば3R(re-use etc.)の先 駆者であった。だから古式水琴窟の遺構からの出土品は、日用雑器とか戦火や震災時に発生する廃材に思う。前項で紹介した平山論文の挿図に、地面下の水琴窟の想像図(蠟燭の灯りで穴の内部を見分)がある。窟壁は小石積でその上には焼き物の皿をかぶせた、云うならば有りもの使用であり、この点でも平山勝蔵は現場を知る庭師でもあった。
 本会に関わる水琴窟師は、確かな技術力に加えて、提案力も豊富なマイスターである。

▣ 水琴窟の再評価と社会貢献

 第一次ブームの過去35年の間に、巷間の話では多くのマイスターが斯界に誕生したといわれる。しかし、三角形の頂点の存在だけでは不可で、今後は底辺の拡大を図らなければと思う。かつては地中に埋もれ、今は好事家の間に埋もれて、再び´幻の水琴窟´になってしまうことを恐れる。
 水琴窟が社会から忘れ去られた存在にならない為に、その底辺の拡大とは一体なんのことか。それは水琴窟が好事家の趣味の世界にとどまらず、一つには多くの公共事業に組み込まれ、予算化され市民権を得ることである。都会の公園の四阿(休憩所のこと)の一隅で、水琴窟の音に都会文明のストレスを癒す市民の姿。そんな光景を思い浮かべてみるだけで、どんなに素敵な21世紀型社会の到来であろうか。
 二つには、本会で一定の品質が担保(全体の熟成度はマイスターの50%であっても)された水琴窟が、誰でもDIY感覚で容易につくれることである。本会はその目的のために、水琴窟についての仕様書を成案化し、識者(マイスター・学際の研究者)からの貴重なご批判を仰ぎたい。その手はじめが、水琴窟の本態に科学のメスを入れ、会話の次元を主観から客観へ移すことである。次項以下は私の試論であり、本会が新たな社会貢献を生み出す道標になろう。

▣ 水琴窟の一滴の音に対する好感度(指標:%)

 その評価として一般に、“ピチャ”と薄っぺらに感じる音よりも、“ポヮン”と膨らみを感じとる音のほうが、聴いた人からの評判がよい。この両者の音感の差は音の減衰時間の差にあるので、仮説としては長くひびく音ほど好ましいといえる。
 よって本会が考える一滴の音への好感度の表示法(JaSA方式)として、100滴の音を聴いて“ポヮン”がもし85滴あれば、好感度85の水琴窟として客観評価する。この思量がおおかた認知されれば、あとは音の計測器の波形で追認しながらのカウント作業になる。

▣ 水琴窟の点列音の快適性

 次に水琴窟の音を連続して聴いている状況を考えてみる。ここで´点列音´とは、しかるべき無作為な間隔を空けながら、継続して鳴る一連の音列と定義しておく。
 かつて寺田寅彦(専門は物理学)は、“風鈴の音の涼しさも、風鈴が風にしたがって鳴る自由さから来る“ と述べている(涼味数題,《週刊朝日》,1933.8月)。この自然科学者の主張にヒントを得て、涼しさを"快適性”、自由さを”自然事象”と言い換えたとき、水琴窟音の快適性への正しい理解の仕方が見えてくる※1)
  )西田・岸塚:水琴窟音のもつ余韻効果の解明,《造園技術報告集》,㈳日本造園学会,№3, 2005

 人間は人体へ同じ強さ又は同じ間隔で刺激が繰り返えされると、次第に感覚が鈍化(環境に馴化)してしまい、最初ほどは「快適性」を感じなくなる心理・生理を持った生命体といわれる。
 先述した朝日新聞´天声人語´の筆者2)は、水琴窟ブームの始まった当時、水琴窟を評して余韻の美学と喝破した。余韻とは言うまでもなく、次の音が鳴るまでの間(マ)のことである。 
  註)筆者:辰濃和男(2017.12.06歿、87歳)

 給排水の構造を伴う装置の水琴窟は、自然界の中で水循環系の一環を形成する。だから水滴のできる間隔も本来は´自然事象´であって、次の音がいつ鳴るかは誰も予測が付かない。これが“器械仕掛けでメトロノームのように几帳面に鳴るのでは“(前出;寺田)、快適な音列の水琴窟としては失格であり、私はそれを真の水琴窟には思えない。

<余談>  また他方これは友人をお見舞いした体験談。何かにすがる緩和ケアの思いから、水琴窟(CD)の音を静かに病室で流し、何本もの管で身動きできない彼を見守っていたら、いつの間にか目尻にはっきりと泪がたまっていた。自然界(そのもとは宇宙)のもつ“ゆらぎ”と、体内の拍動のそれが相呼応したのだろうか。
  資料3:武者利光:人が快・不快を感じる理由,1999.8.1初版,河出書房新社
  資料4:宮崎良文編:快適さのおはなし,2002.8.9初版,日本規格協会


                        2017年4月 日本水琴窟アカデミーを代表して

                                       岸塚正昭(専門:生物環境調節学 )